愛について


いろんな経験をしてようやくわかってきたのですが、どうやらわたしのなかで、恋愛とセックスは別物みたいです。

普通の人は、好きな人としかセックスしたいと思わないんだろうし、そもそも好きな人とじゃないと気持ちよくないっていうのが大前提にあるのだと思います。初対面の相手とセックスするなんて信じられないとか、セックスだけの関係なんて不毛だからやめておけとか、常識的で一般的な意見だと思います。わたしも、セックスを知るまえは当然のようにそう思っていたし、そうあるべきだと考えていました。

でも、いざセックスしてみたら、相手に恋愛感情を抱いているかどうかはあまり関係ないように思えてきて、今はむしろ、なんとも思っていない相手とセックスする方が気楽で好きです。恋愛とセックスは、完全にわかれている方がしっくりくる感覚があります。恋愛の先にあるセックスこそが正しいもの、という一般論を否定することはしませんが、今のわたしはその正しさを求めていないかもしれません。

だって、相手のこと好きじゃなくても、いいところ擦ってくれれば物理的に気持ちいいじゃないですか。相手のこと好きかどうかなんて関係なくて、あんなものマッサージと同じで、自分が気持ちいいと思えるツボをさすったり揉んだり舐めたり突いたりしてくれさえすれば、「ッはァァァ~~」ってなるじゃないですか。

ならないか。(笑)

いや、普通の人はそうならないんだろうなってことは、わかっています。わたしは一体、いつから普通じゃなくなっちゃったんだろう。今までずっと、とりわけ恋愛面においては、人より真面目に生きてきたはずなんだけどな。やっぱり処女は、然るべきタイミングで捨てておくべきだった気がするな。

初対面の相手とセックスできるなんて話を、友達から聞いたことはありません。
いい歳こいてマッチングアプリで遊んでる子も、身近に一人もいません。
周りと自分とのズレを、ものすごく感じる今日この頃です。

みんな妻になったり母になったりしているのに、わたしにはその願望すらない。
始まった関係はいつか必ず終わるのだから、いっそ何も始まらなければいい。
付き合うとか結婚するとか、今のわたしには荷が重くて面倒くさい。
「誓いますか?」って、永遠の愛なんか誓えるわけがない。
誓えるみんなと誓えないわたしのちがいって、なんなんだろう。

そういえば先日、ツイッターで「蛙化現象」というワードがトレンドになっていました。わたしはまさに、自分の内側で起こるその現象に戸惑ったり悩んだりしてきたタイプです。好意を抱いた人に好意を向けられると、ゲロゲロに蛙化してしまう。理想が高いだの自分に自信を持てだの人はいろいろ言いますが、こればっかりは大目に見てほしい。「この人のこと素敵だと思ってたのに、よりによってわたしなんかのこと好きになっちゃうなんて解釈ちがいも甚だしい……」って、なっちゃうんだってどうしても。

彼氏いない歴26年11ヵ月を貫いてしまったせいか、わたしには人に「性の対象」として見られることがとても怖かった時期がありました(2016年の記事にもそんなようなことを書いている)。好きとか付き合ってくださいとか言われても、え、じゃあわたしたちそのうちセックスするんですか? あなた、わたしなんかで興奮するんですか? っていう不安や恐怖が先行してしまう。あのぞわぞわする感じは、言葉ではなんとも表現しがたいものです。セックスの気持ちよさを知っても、これは克服できませんでした。好意を言動で示されると、未だに胃液がせり上がってくるような感じがします。多分その人とセックスするかどうかはあまり関係なくて、恋愛感情(のようなもの)をちらつかされると、もう無理になってしまう。どうして素直に喜べないんだろうって、自分で自分を嫌になったこともあります。恋愛に対する憧憬はあるのに、こんなの矛盾しているじゃないですか。

未知なるセックスに対する漠然とした恐怖と、女性として特に何かが秀でているわけでもないわたしの身体で相手が興奮するのか? という不安は、恋愛感情を抱いていない相手とセックスすることで乗り越えました。わたしがなんとも思っていない相手に触られて興奮するのと同じで、そういうことができる相手は、わたしの顔も身体も性格も、大して見ていない。だから勃つし、射精もする。多分わたしのこと、かろうじて知能があるTENGAくらいにしか捉えてないんじゃないかな。

可愛くないとか、乳がないとか、そういうことは実はあんまり関係ないとわかると、少し自分に自信が持てるようになりました。荒療治にもほどがあるって身近な人には怒られそうだけど、わたしは後悔していないし、これからも当たり前みたいな顔して、なんとも思っていない相手とセックスすると思う。一方で、恋愛感情を抱いた相手とそういうことをするのは、あまり望まないかもしれない。片想いの状態が一番心地いいんだもん、一生片想いしていたい。

あとは、恋愛感情を抱いた相手の性的興奮状態というのを、あまり見たくないのもあります。わたしはその人が持つ知性に惹かれて人を好きになることが多いので、理性より本能優位になった相手の姿を、敢えて見たいとは思わない。お互い様だけど、セックスしてるときって人生で一番ばかじゃん。人生で一番ばかな瞬間を、わざわざ二人で共有する意味ってあるのかなって思っちゃう。なんとも思っていない相手で事足りるなら、リスクを負ってまで好きな人としなくていっかって思っちゃう。

わたしみたいな考え方も、リスロマンティックに分類されるのでしょうか。微妙。このあたりの感覚は100人いたら100通りあると思っているので、言葉で定義することに確実性はさほどない気がします。リスロマンティックを自認することは、本来線のないところにわざと線を引くような行為で、おそらくそれは自分自身を正しく理解することにはつながらない。今までは自分の置かれた状況や経験の少なさからその傾向が強く出ていただけで、これから変わっていくのかもしれないし。

親の離別がどこまでわたしの恋愛観や結婚観に影響してるのかわからないけど、多分まだ、なんやかんやで消化しきれていない部分もあって、こういう感じなのかなと思ったりします。始まりって、終わりに向かって踏み出していくイメージが、どうしてもある。始まらなければ終わらなくてすむって、だめな考え方なのかな。快楽主義っていうか享楽主義っていうか。

「セックスだって関係性の始まりじゃん」というツッコミは甘んじて受けますが、あの極めて肉体的な気持ちよさが果たして恋愛感情という精神的なものに昇華されるのかというと、今はまだちょっと疑問です。

とはいえ、恋愛もセックスも相手あってこそのもので、一人でどうにかできるものではありません。きっと、これまでに出会った人と、これから出会う人次第。わたしは自分に正直に、違和感のない恋愛やセックスをしたいし、多分それが、自分で幸せを決めるということなんだと思います。


※タイトル「愛について」は、野村佐紀子さんの写真集のタイトルから取りました。今しか書けないことを書き残しておくことにも意味があると思い、ここ最近ツイッターでぽろぽろつぶやいては消していた断片を組み立て直した次第です。半年もしたらまたちがうこと言ってるかも。女心と秋の空。