女による、女のためのエロがアツい!―男を描く日本画家・木村了子に聞いた、これからのアートの可能性


 「名画」と聞いて、あなたはどんな絵を思い浮かべるだろうか。レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》? ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》? それともマネの《オランピア》? 果たして、男の裸を描いた絵を想像した人がどれだけいるだろう。

 絵画史には、なぜか「描く男」「描かれる女」という前提がある。もちろん女の画家がいなかったわけではないが、上村松園も、マリー・ローランサンも、フリーダ・カーロも、主として女の姿を描いた※1。誰が決めたわけでもなく、男の画家は性の対象として女を描き、女の画家は自己投影として女を描いてきたのである。描き手が男であれ女であれ、描かれるのはいつも女。この世には絵に描いたようなイケメンがたくさんいるというのに、なんとおかしなことだろう。男の画家が女の裸を描くように、女の画家が男の裸を描いたっていいではないか。アートに興味を持ち始めてからというもの、ずっと不思議で仕方がなかった。

 しかし数年前、偶然ある女性画家のブログにたどり着いた。

 「以前は私も深く考えず、当たり前のように女性の姿を描いていましたが、ある時期、女性である私が女性自身の姿を描くことに意味を見つけられなくなりました。そこで異性である男性の姿を描いてみたところ、思いのほか楽しかったのです」※2

 作品ギャラリーには、イケメンがズラリ。男性器をあらわにしたイケメンの絵もあった。衝撃を受けた。「男の裸を描く女の画家、いるじゃん……」。これが、イケメンを描く日本画家・木村さんと、私との出会いだった。

 幼い頃から、リカちゃん人形よりウルトラマンのフィギュア、モー娘。よりKinKi Kidsが好きだった私である。男の体への執着心は衰えることなく、今となってはボーイズラブを愛好している。ボーイズラブとは、男同士の恋愛を軸とした物語群のことで、マンガや小説のみならず、ドラマCDやゲーム、アニメや実写映画などもこれに含まれる※3。特筆すべきは、作り手も受け手も基本的に女であるという点だ。男しか登場しないラブロマンス、愛し合うイケメンとイケメン、濃厚なセックスシーン、露骨な男性器の描写……。こうした独特の世界観を作り出す原動力の一つは、一方的に男の裸を見つめていたい、という女の欲望である。

 そしてついに、ボーイズラブの勢力は美術史的にも無視できないところまできた。昨年12月号の『美術手帖』で何が特集されていたか、ご存知だろうか。

 ―そう、「ボーイズラブ」である。

 こうした時代の流れから見えてくるのは、「描く女」「描かれる男」という新しい可能性だ。女が男を描くという点で、アートの領域にある木村さんの「イケメン画」と、カルチャーの領域にある「ボーイズラブ」は共通している。今回は、ボーイズラブを愛好している私が木村さんを取材することで、女が積極的に男の裸を愛でるとはどういうことなのか、これまでになかった視点で考察してみようと思う。

木村了子 《White Wave 白波図》 2005年 雲肌麻紙に岩絵の具、銀箔 33.0×55.8cm 個人蔵

 

◆この10年で変わったこと

 ボーイズラブが創作され、読まれるようになったのは、何もここ数年の話ではない。小説『恋人たちの森』(森茉莉/1961)やマンガ『ポーの一族』(萩尾望都/1974-76)が最初期のボーイズラブ作品として語られているように、その起源は半世紀前にまでさかのぼる。しかし木村さんは、こんなにたくさんの女たちが男の裸を描き始めたのは突然のことだった、と語る。

 「私の世代で、そういう意味で印象に残っているのはマンガ家の岡崎京子さん。岡崎さんの作品はボーイズラブではないけど、確か何かの作品のあとがきで『一時期チンコを描きたくて描きたくてしょうがなかった』というようなことを書かれていて。そこにチンコのらくがきも添えてあった記憶が……。うろ覚えですが(笑)。それを見た時に、女でもこんなことやっていいんだ、ってビックリしたのを未だに覚えてる。当時注目されてた女のマンガ家が、自著でそういうことを率直に書いてるっていうのも、特に印象的だったんだよね。その頃、成人女性向けに描かれた性描写を含むマンガ、レディースコミックは既にあったんだけど、今にして思えば描写が控えめだった。最近のマンガは、10代女子をターゲットにしたものでも、セックスシーンで擬音書きまくりだよね。ボーイズラブしかり。昔のレディースコミックは『あなたを愛しているわ!』『俺も愛しているよ……』で、周りにバラが散って、そのへんのシーンはなんとなくぼんやりと、穏やかに流れていく感じだったのに(笑)。そう考えると、ずいぶん時代は変わったなと思います」。

 それでも、男が見ることを想定したアダルトビデオやエロマンガに比べると、ボーイズラブは体液や陰毛が再現されず、表現が間接的だと言われることもしばしば。女による、女のためのエロなのだから、男向けのエロと同じであるはずがないだろう、という読みだ。しかし、実際にボーイズラブを読みあさっている私は、そうした考察に疑問を抱かずにはいられない。ボーイズラブは、世間の予想を遥かに超えてエロだからだ。「それどっから出てんの?」と思わずツッコみたくなるような体液が登場人物の股間まわりに飛び散っていることもあれば、現実離れしたサイズの男性器がクローズアップで描かれることもある。女による女のためのエロ描写は、ボーイズラブの盛り上がりとともに大きな発展を遂げたのだ。男向けエロマンガに勝るとも劣らないエロが今、女たちの手によって生み出され、女たちによって消費されている。そしてこの現象が、木村さんの作品に対する理解も変えることとなる。

 木村さんがイケメン画を描き始めたのは、2005年。「描く男」「描かれる女」の前提をくつがえすセンセーショナルな作品を前に、当時のお客さんたちは口を揃えて聞いた。「なぜあなたは男を描くの?」と。しかし10年経った今、状況はガラリと変わった。

 「もう『なんで男を描くんですか?』って言われなくなったね。私が最初にイケメン画を発表してから時間が経って、多少は認知されたこともあるとは思うけど、たぶんボーイズラブがこれだけ市民権を得たからだと思うよ。ここまでみんながワイワイ騒いでると、さすがに年配の方たちにも浸透してくるみたいで。今はもう、私の作品を見ても『ボーイズラブなんでしょ?』っていう感じ。最初は『ボーイズラブとは違うので』って言ってたんだけど、最近は『もういいや!』って(笑)。ワンジャンルとしてまとまるくらいの方が、勢いが出るんじゃないかな、って考えられるようになった」。

 つい最近まで、自身の作品をボーイズラブと捉えられることに抵抗を感じていたという木村さん。木村さんの作品は「男同士の恋愛を軸とした」ものではないのだから、当然である。では、一体何をきっかけに「私の作品もある意味ボーイズラブと同じなのかもしれない」という考えに至ったのだろうか。ここからは、木村さんのイケメン画とボーイズラブの共通点について掘り下げていく。

池 玲文 「媚の凶刃1」 リブレ出版、2014年、158頁

座裏屋蘭丸 「優しいディナー」(単行本『眠り男と恋男』所収) リブレ出版、2015年、80頁

 

◆見られることなく見る

 男向けエロマンガと、ボーイズラブという女向けのマンガ。この二つを比べると、セックスシーンにおける「構図」に明らかな違いがある。男向けエロマンガでは、読者が主人公の男に自身を投影しながら読み進めるため、組み敷いた女を上から見下ろしている「一人称の視点」を取ることが多い。一方ボーイズラブのセックスシーンは、愛し合う男二人を横から眺める「覗き見の視点」で描かれることが多いのだ。男向けエロマンガでは「男の視点で見た女」が重要視されるのに対し、ボーイズラブでは「二人の両方を見て楽しむこと」が重要視されるのである※4。『美術手帖』での特集タイトルが「 “関係性” の表現をほどく ボーイズラブ」だったのも、これと無関係ではない。

 そしてこの覗き見の視点は、木村さんのイケメン画にも共通している。《白波図》でも《お昼寝ターザン危機一髪!》でも、鑑賞者が横から男の裸を眺められる構図が取られているのだ。木村さんはその点に気付いていなかったようだが、この視点の一致は、必然でもある。いずれの絵も「男の裸を見たい」という女の衝動によって生み出されたものだからだ。

 自分を投影することなく、第三者の視点で男をじっと見つめていられる立ち位置……。長らくエロの対象として一方的に見られ、描かれてきた女にとって、こんなにも安心感を得られる場所は他にない。

木村了子 《お昼寝ターザン危機一髪!》 2010年 絹本着彩 42.6×54.5cm

雲田はるこ 『いとしの猫っ毛』4巻 リブレ出版、2015年、59頁


◆他人事だからなんでもアリ

 「覗き見の視点」の他にもう一つ、木村さんのイケメン画とボーイズラブには共通点がある。それは、対象との「距離感」だ。異性である男を描き、男の姿を覗き見することで、なぜ女は安心感を得られるのか。答えはこの距離感にある。

 見る対象、描く対象が自分と同じ女の形をしているというだけで、無意識のうちに起こる自己投影。私がボーイズラブを好んで読むのは、少女マンガに表象される受け身女子に、全く共感できなくなってしまったからだ。イケメンに惚れた弱みなのか、少女マンガに出てくる女子には、ほとんどの場合主体性がない。ドSイケメン男子に振り回されっぱなしだ。もっと主体的にイケメンをねっとり眺めていられる世界ってないわけ? そう思いながら広いマンガの海を漂流するうち、ようやく流れ着いた安住の地がボーイズラブという島だった。イケメンとイケメンのラブラブな日常を覗き見するという、この主体性。向こうは互いに愛し合うことに夢中で、こっちから女が見ていることには気付いていないようだ。しめしめ。

 自分が女である以上、男性器のついた彼らと自分自身を、完全なイコールで考えることは難しい。ここには「性差」という「距離感」が存在しているのだ。

 実はこの感覚、木村さんにも通じている。

 「私が男を描き続ける理由の一つに、自己投影しなくて済むっていう圧倒的な距離感があるんだよね。私はどちらかというと対象を客観的な視点で描きたいタイプだけど、女を描くとどうしても、描いたものと自分との距離が近くなってしまう。そして展示会場で自分がその作品の前にいると『これはあなたなの?』って聞かれる。自分をモデルにしているわけではないけど『違います』とも言い切れず、自分がさらされている感じも、そう受け取られることも生理的にイヤだったのね。でも男を描き始めると、作品の前にいても『これはあなたを描いてるの?』って、当たり前だけど言われなくなった。それが本当に楽で。人物画を描く前提として、描く対象を完全に他者として自分と切り離せる、圧倒的な距離感を作れるっていうのは、私にとって本当に好都合だった」。

 来年4月の個展では、人魚姫に着想を得た連作を発表するという木村さん。もちろん、主人公の性別を逆転させたイケメン人魚の物語だ。

 「新作では、少年人魚が魔法で人間になるのと引き換えに、醜い老魔女に襲われて童貞を奪われるシーンを春画的に描くつもりなんです。たとえ同じ春画でも、少女人魚が小汚いおっさん魔王に犯されている絵は描こうとも思わないし、描いてもかなり嫌悪感を覚えると思うんだけど、男の子だと平気で描けちゃう(笑)。なぜそれができるんだろうって考えると、やっぱり描く対象が異性であることによって生じる、圧倒的な距離感なんだよね。それに尽きる。男っていうだけで、不思議なほど超他人事になっちゃうんだなって。あくまでエロ・ファンタジーとして『描く』上での話ですけどね(笑)」。

 ボーイズラブも自身の作品も「自己投影せずにいられる」という点で同じだと言う木村さん。

 「ボーイズラブって、セックスシーンで喘いでるのも喘がせてるのも、どっちも男じゃない。それって女から見ると、ある意味非常に平等なのかもしれないよね。世のエロマンガでは喘ぐのは女ばっかだけど、責める男の姿も、かわいく喘ぐ男の姿も、どっちも見たい! と思う女のエロい妄想のはけ口としては、理に適っている。女が、堂々とエロい男たちを楽しむためにようやく手に入れた免罪符、それがボーイズラブなのかもね」。

木村了子 ≪目覚めろ、野生! 鰐虎図屏風≫ 2009年 鳥の子和紙に銀箔、岩絵の具 242×439cm  左隻「アジアの白い虎」 個人蔵

木村了子 ≪目覚めろ、野生! 鰐虎図屏風≫ 2009年 鳥の子和紙に銀箔、岩絵の具 242×439cm  右隻「鰐乗って行こう!」 作家蔵


ボーイズラブはアートになり得るか?

 「描く男」「描かれる女」という絵画史の前提に風穴を開けた画家、木村さん。近い将来ボーイズラブがアートのジャンルとして成立する可能性も、十分にあると考えている。

 「男を描き始めた頃は、もっと厚くて高い、目に見えないアートの壁を感じていた。世の男性像は、男が描いたヒューマニズム的な作品か、ゲイアートとして描かれたものがほとんどだったし、女が性の対象として男を描くっていうのは、アートの世界ではまだまだ異常だったのね。でも、ここにきて『もしかしてイケるんじゃない?』って感じになってきたのは、ボーイズラブの勢いが強いからだと思わざるを得ない。女だってエロい目で男を見てるんじゃ! という姿勢が女たちの間でどんどんマジョリティ化してきた。これをアートでやりたいっていう女の画家は既にちらほら出てきてるし、今後も増えるんじゃないかな」。

 しかし現在、著名な評論家やコレクターの多くは男だ。「描く男」「描かれる女」の前提をおびやかす男の裸は、受け入れられないこともある。

 「《目覚めろ、野生! 鰐虎図屏風》は、トラの方しか売れなかったのね。なんでワニの方は買わないのか聞いたら、股をパカーンって開いてるのがイヤだって言われたの。『なんか、男がバカにされてるみたい』って。でも、女が大股開きしてるアート絵画は大量にある。女の画家も描いているし、男の画家もいっぱい描いている。だから私はわざと、ちょっとこれ見よがしに、男が股を開いているポーズを明る~く取らせてみたんだけど(笑)。それを見てどう感じるかは、世代によって違ってくるでしょうね」。

 今や、女性週刊誌『an-an』が定期的に「オトコノカラダ」特集を組み、『週刊文春』には、ブリーフ姿で三輪車にまたがるイケメン俳優のグラビアが載る時代である。今後、そういった画を見慣れている世代がどこまで貪欲に男の裸を求め、享受していくのか。今ボーイズラブを読んでいる女たちの中から、男の体を描く巨匠画家が生まれる可能性だってある。

 「ボーイズラブも私の作品も、視点は同じなんだよね。ボーイズラブの読者も私自身も、描かれた対象に自分を投影することなく、距離を置いて横から男を見ている。その『男を見る』という『女の』視点が、今までのアートにはなかった」。

 マンガというカルチャーの領域で、メキメキと勢力を伸ばしている男の裸。ボーイズラブという女の欲望丸出しのムーブメントが、アートの領域に進出してくるのも時間の問題だ。10年、いや5年も経てば、男を描く女の画家は稀有な存在ではなくなっているかもしれない。

 ボーイズラブと、絵画史におけるイケメン画。存在する領域は異なっているけれども、これからともに進化していくジャンルであることに間違いはないだろう。「描く女」「描かれる男」という新しい可能性。女の裸が男に享受されるだけの時代は、とうに終わりを迎えている。


きむら・りょうこ
1971年、京都府生まれ。95年、東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻卒業、97年、同大学院美術研究科壁画専攻修士課程修了。「美男画」という新たなジャンルを確立すべく、日本画の技法でアジアのイケメンを描いている。北野武監督映画「龍三と七人の子分たち」(2015)では、劇中に登場する龍図襖絵を手掛けた。


※1 木村了子 「美男礼賛―男を描くということ」(未発表文書、2013年)参考。
※2 木村了子ブログ 「『男』を描くということ その1」 2010年1月29日 http://www.art-it.asia/u/ryokokimura/LUH8BAPripEWeCozNbIX/(最終検索日:2015年11月19日)
※3 溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』 太田出版、2015年、18頁参考。
※4 金田淳子×福田里香×山本文子 「熱きボーイズラブの表現を語る! 萌える座談会」 『美術手帖』2014年12月号、美術出版社、2014年、76頁参考。


【補足】
・本記事は、編集・ライター養成講座の卒業制作として2015年11月末に執筆したものです。本文の著作権は株式会社宣伝会議に帰属します。


text : Saori Yanagi